明治時代の神戸続編/茜堂

古の寫眞で見る明治期の神戶の風景=茜堂

明治期の神戸の頁から、お越し頂いた方は、引続き明治期の神戸続編を、お楽しみ下さいませ。
別頁からお越しの方は、最下段のリンクバーの「戻る」を、クリックして頂けましたら、
前編となる、明治期の神戸の頁をご覧頂けます。それでは、明治初期の神戸の施設や、建築物や風景等をご覧下さいませ。

茜堂-電信郵便寮

明治7年に、横浜、神戸、長崎の三港に、郵便役所を建築する伺書が提出されました。
   

茜堂-電信郵便寮

神戸の郵便役所は、木造二階建てで、予算の関係から、電信局との合同で、建てられました、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

近代郵便制度は、前島密により、東京〜京都〜大阪間の、政府の手紙等の配達に、民間の手紙も受け入れて、利益を上げる提案をし、
明治4年4月20日に、英国から導入され、東京〜大阪間62箇所の郵便取扱所で、官吏が引き受け、管理、配送時間厳守で始まりました。
   

明治7年には、神戸を含む三つの港町に、郵便役所を建築する計画が立ち、横浜はレンガ作り、神戸と長崎は木造二階建てで、
総工費3万円の計画でしたが、経費節減の為に、横浜は木造に、神戸と長崎は、電信局との合同で、建設が認められました。

茜堂-三井銀行

天和3(1683年)年5月、三井八郎右衛門高利が、江戸駿河町に開いた、越後屋三井両替店を起源とします。
   

茜堂-三井銀行

英国銀行よりも、11年も早く、越後屋三井両替店を、天保3年5月に創業しました、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

幕府御用から、王政復古の発令を経て、維新政府の為替方となった、三井組は、大蔵省の前身である、金穀出納所御用達を受諾し、
御為替方三井組となり、政府の殖産資金創出策に提携し、銀行業者としての、貴重な体験を得て、為替会社を設立しました。
通商、為替会社は東京で設立され、ついで大阪、横浜、西京(京都)、大津、神戸、新潟、敦賀に設けられました。
   

設立した、為換座三井組の各支店では、1両を1円とする、交換業務を行っていました。
栄町通に有った、旧三井銀行神戸支店は、大正5年に改築し、後に移転した後には、第一勧業銀行が入っています。

茜堂-外国人居留地

写真帳の表題では「居留地、海岸居留地」と、記載されています。
兵庫の開港は、長崎より9年遅れで有った事が幸いし、長崎の経験を生かした、合理的な都市計画が、立てられました。

   

茜堂-外国人居留地

海から山に掛かる居留地、六甲山系を背にした通りが、エキゾチックです、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

六甲の山々を背景に、南北に伸びる明石町筋の居留地。建ち並ぶ洋館が、異国の雰囲気を醸し出しています。
   

茜堂-外国人居留地

街並が整備された、海岸通の居留地、全ての通りには、車道と歩道が区別されていました、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

風光明媚な海岸通の、神戸外国人居留地の街並。現在とは異なり、海岸通の直ぐ近くに砂浜が有った様です。
   

茜堂-外国人居留地

芝生が、綺麗に整備されています、絵葉書(発行元は不明)です。

神戸外国人居留地は、安政五ヵ国条約に基づき、慶応3年(1867年)12月7日〜明治32年7月16日の間、
兵庫津の約3.5km東に位置する、神戸村(神戸市中央区)に、設けられた外国人居留地で、神戸居留地とも呼ばれていました。
   

東を、旧生田川(フラワーロード)、西を鯉川(鯉川筋)、南を海岸、北を西国街道(花時計線)に囲まれた、約7万8000坪の区域が、
都市計画に基づき、合理的に開発され「東洋における居留地として、最も良く設計されている」と、英紙に評されました。
また、一定の行政権、財政権等の、治外法権が認められ、居留外国人を中心に組織された、自治機構によって運営されていました。

茜堂-諏訪山常磐楼

写真帳の表題では「諏訪山常盤樓」と、記載されています。
多くの著名人も訪れたと言われている、諏訪山温泉を有した神戸一の高級料亭、今は無き常磐楼。

   

茜堂-諏訪山常磐楼

諏訪山の東側に佇む、今は無き、二階建ての温泉料亭、常磐楼本店、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

明治6年、前田又吉が諏訪山に鉱泉を掘り出し、神戸宇治川に有った料亭「常磐花壇」を、この諏訪山の東側に移し、
二階建ての温泉料亭「常磐楼」を開きました。又、前田又吉は、明治21年には、京都で三階建ての「常磐ホテル」を、開業しています。
京都を代表するホテル、京都ホテル(現、京都ホテルオークラ)の、前身となります。
   

常磐楼は、諏訪山の東側に有った、常磐楼本店(西常磐)と、その隣店の常磐楼中店(中常磐)と、
御影山手の深田池を望む地に、常磐楼東店(東常磐)が有り、沖縄県の那覇通堂にも支店を持ち、神戸では最高級の大料亭でした。

茜堂-福原病院

福原と聞くと、風俗街としてのイメージが湧いて出る。昔は「さんばら」と並び称される程、有名な所でした。
   


茜堂-福原病院

海外からの伝染病の蔓延防止の為、英国公使の助言で建てられた、福原病院、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

神戸は、横浜、長崎と並び称される港湾都市の為、外国船員の来往を含めて、伝染病の流行が、常に憂慮されていた事から、
明治八年には、英国公使の助言によって、遊廓が在った福原に、病院が開設されました。
   

福原(ふくはら、ふくわら)は、古くは平清盛を中心とした、平氏政権の「福原京」で知られている、地名ですが、
当地の福原は、明治以降に付けられた、地名ですので、由来的には、福原京との直接の関係はありません。
残念乍ら、福原病院の記憶や記録はございません。何となく頭の奥深くに、音の響きとしては残ってるんですが、出て来ません。



生写真と絵葉書で見る明治期の神社仏閣や史蹟等の風景=茜堂

明治初期の神戸の神社仏閣や、貴重な史蹟や風景等をご覧下さいませ。

茜堂-兵庫真光寺

写真帳の表題では「兵庫眞光寺」と、記載されています。
福原西国三十三箇所、今は無き、大きな阿弥陀如来座像が置かれていた、第33番札所の時宗西月山真光寺。

   

茜堂-兵庫真光寺大仏

時宗西月山真光寺、戦前には、大きな阿弥陀如来座像が、置かれていました、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

阿弥陀如来座像の横には、一般的に山門と呼ばれる、立派な三門(三解脱門)が建っています。
   


茜堂-兵庫真光寺大仏

奥に本堂が、写っています、絵葉書(発行元は不明)です。

開祖一遍上人の時宗のお寺さん、伏見天皇の勅願により、真光寺と号し、播州守護職赤松円心より、寺領を寄進されました。
ご本尊は、阿弥陀如来仏で、七堂伽藍は荘厳を極め、寺地三十八町四方に、及んだと言われています。
次いで、後醍醐天皇より西月山の山号を勅賜され、南朝の皇族尊観法親王が住持されてから、更に、念仏の大道場として繁栄しました。
   

昭和20年3月の神戸大空襲で、全伽藍を焼失し、残念な事に、多くの寺宝が失われています。
現在残っている、五輪石塔(
一遍上人墓塔)は、県指定文化財となっています。

茜堂-三宮神社

写真帳の表題では「三ノ宮」と、記載されています。
三宮神社は、古来より生田神社の社領となり、八柱の裔神を祭る、一宮から八宮までの生田裔神八社の内、三番目に当たります。

   

茜堂-三宮神社

三宮神社は、生田神社の社領で、生田裔神の三番目、現在では、周囲をビルに囲まれています、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

三宮神宮は、神戸の中心地三宮町に鎮座し、三宮町の名称の、由来となっています。
宗像三女神の一神、水の神様である、湍津姫命を御祭神とし、航海の安全と商工業の繁栄を守る神とし、古くから崇敬厚い神社です。
また、境内の井戸水から湧き出す上質な水は、開港間もない神戸港を出入りする、船舶の飲料水として、重宝されていました。
   

昔は、写真の様に深い森が広がっていました。慶応4年(1868年)に三宮神社前に於いて、岡山藩士と仏兵との衝突が発生し、
明治政府発の外交事件となった。これを神戸事件(備前事件)と言い、境内には神戸事件発生地碑と、当時の大砲が置かれています。

茜堂-生田神社

写真帳の表題では「生田宮」と、記載されています。
神戸の地名の由来となった、生田神社。且つては、現在の神戸市中央区の一帯が社領でした。

   

茜堂-生田神社

素人さんが挑んだ、手彩色、筆致が散漫、やはり絵心が無いと難しい、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

生田神社の境内に入ると、三の鳥居と、御神門、楠木が生い茂る鎮守の森(生田の森)。
   

茜堂-生田神社(絵葉書)

生田神社、三の鳥居と、御神門、絵葉書(発行元は不明)です。

後年の絵葉書(発行元不明)で、同じ方向からの三の鳥居と、御神門、周囲はかなり整備されています。
   

茜堂-生田神社(絵葉書)

生田神社、社号標と、二の鳥居、絵葉書(発行元は不明)です。

手彩色が施された、後年の外国人向け絵葉書で、二の鳥居と、右側に社号標が写っています。
生田神社は、旧社格は官幣中社。同じ兵庫県内の廣田神社や、長田神社と共に、神功皇后以来の歴史を、有しています。
   

当初は、布引山(砂山=いさご山)に祀られていましたが、延暦18年(799年)4月9日の、大洪水により麓が崩れ、山の崩壊の恐れが出た為、
御神体を、現在の地である生田の森に、移転をしたと言われています。また、中央区一帯が社領であった所から、
神地神戸(かんべ)の、神戸(かんべ)が地の呼称となり、中世に紺戸(こんべ)、近年に神戸(こうべ)と、呼ばれる様になっています。
   

その大洪水の際に、社の周囲には、松の木が植えられていましたが、洪水防止には、全く役に立た無かった為、
生田の森には、現在でも、松の木は一本も、植えられていません。

茜堂-長田神社

地元の方々から、長田さんの愛称で親しまれている長田神社。その歴史は古く、神功皇后摂政元年(201年)とされています。
   

茜堂-長田神社

長田神社の本殿、灯籠と狛犬、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

事代主神(於天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代主神)を、主祭神として、本殿瑞垣内に天照大御神、応神天皇を祀っています。
延喜式神名帳では、名神大社、更に祈雨八十五座に列され、商工業や産業の護り神として、崇敬されています。
生田神社や、湊川神社と共に、神戸を代表する神社で、室町時代から続く「追儺式神事(国指定無形文化財)」が有名です。
   

境内には鶏が放たれていて、且つては、数百羽の鶏も飼われていた為、外国人からは、チキンテンプルと呼ばれていました。

茜堂-湊川神社

写真帳の表題では「五百五十年祭、十八年七月中、楠公」と、記載されています。
湊川神社は、楠木正成を祭る神社で、地元では「楠公(なんこう)さん」と、親しみを込めて呼ばれています。

   

茜堂-湊川神社

明治18年7月の、湊川神社、楠公五百五十年祭、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

湊川神社は、建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社となります。写真手前が表門、奥が社殿です。
   

茜堂-湊川神社(絵葉書)

湊川神社、表門、絵葉書(発行元は不明)です。

楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日に、湊川の戦いで足利尊氏と戦い、殉節しました。
元禄5年には、荒廃していた墓に、徳川光圀公自筆の石碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が、建立されました。
以来、水戸学者らにより、楠木正成は、理想の勤皇家として崇敬され、幕末には維新志士らにより、祭祀されるようになりました。
   

慶応3年(1867年)に、尾張藩主徳川慶勝によって、楠社創立の建白がなされ、明治元年に、明治天皇は大楠公の忠義を、後世に伝える為、
神社を創建するよう命じ、明治5年5月24日に、湊川神社が、創建されました。
現在の社殿は、戦災に因り消失した物を、昭和27年10月24日に、復興新築されたものです。

茜堂-布引瀧

布引の滝(瀧)は、神戸市中央区を流れる、布引渓流(名水百選)の4つの滝の総称で、日本三大神滝のひとつ。
   

茜堂-布引瀧

布引の滝の代表格、落差43メートルの、勇壮な雄瀧、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

周辺は整備が成されてなく、山道も足許が脆弱で、粗雑な木橋が見て取れ、まだまだ開発半ばと言った感じがします。
   

茜堂-布引瀧(絵葉書)

屋根付きの橋や、周辺整備が整備されています、絵葉書(発行元は不明)です。

布引の滝は、布引滝とも表記され、名瀑として知られる古来からの景勝地で、六甲山の麓を流れる、生田川の中流(布引渓流)に位置し、
上流から順に、雄滝(おんたき)、夫婦滝(めおとだき)、鼓滝(つつみだき)、雌滝(めんたき)の、4つの滝からなっています。
栃木県日光市の華厳滝、和歌山県那智勝浦町の那智滝と共に、三大神滝とされています。
   

絵葉書は、光村出版部発行の物で、表面には1銭5里の切手が貼られ、消印として、明治44年1月25日の押印が有ります。
且つては、滝勝寺の修験道行場として、下界とは一線を画す地域でしたが、絵葉書では、木橋が観光用に、綺麗に整備されています。
現在は、渓流沿い及び、布引山(森林浴の森100選)一帯から、滝を経て布引ハーブ園へ迄の、遊歩道が整備されています。

茜堂-海岸飛脚船

船に帆柱が林立し、帆を張った飛脚船(ひきゃくぶね)が沖合に、流石に明治の風景です。
   

茜堂-海岸飛脚船

神戸沖に数隻の帆船が、利便性の高かった、飛脚船、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

飛脚船は、江戸時代に始まった、主要な港湾や浦々を結ぶ急ぎの船で、官民問わず、急ぎの用をこなしていた、足の速い便船です。
陸の飛脚に比べ、やや大きな物でも、遠方に迅速に輸送出来る為、鉄道網が整う迄の間は、重宝されていた様です。

茜堂-平家清盛墓所

平清盛の墓所は、各地に5箇所も有り、写真は神戸市兵庫区切戸町に有る、清盛塚(供養塔)です。
   

茜堂-平家清盛墓所

立派な作りの十三重の石塔、平家清盛塚(供養塔)、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

平清盛は、平安時代の武将で公卿、娘の徳子を、高倉天皇に入内させ「平家にあらずんば人にあらず」と、言われる時代を築きました。
平家の独裁は、貴族や寺社、武士から反発を受け、源氏による討伐の最中、京都にて、治承5年(1181年)旧閏2月4日に、病で没します。
その後、元暦2年(1185年)の、壇ノ浦の戦いに敗れて、平家は滅亡しました。
   

平清盛の墓所は、神戸の清盛塚(供養塔)の他に、同じく、神戸の宝積山能福寺平相國廟、京都の補陀洛山六波羅蜜寺の平清盛塚と、
同じく、京都の祇王寺の供養塔、そして、下関の彦島の清盛塚の、5箇所が有名です。
高さ約8.5メートルの十三重の石塔の、清盛塚(供養塔)には「弘安9年(1286年)2月」の、年号が刻まれています。

茜堂-兵庫一ノ谷

須磨(タイトルの「兵庫」は、写真帳の表題より)の一ノ谷は、源氏と平家が戦った「一ノ谷の戦い」で有名な所です。
   

茜堂-兵庫一ノ谷

且つての合戦場、一ノ谷、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

平安の後期、平清盛が、京都から福原に都を移すが、後に、須磨の一ノ谷の源平合戦で、源義経に破れました。
源平興亡の舞台となった、須磨の一ノ谷周辺には、源平ゆかりの約60箇所にものぼる、様々な史跡が点在しています。
須磨浦公園には、源平史跡「戦の濱」の石碑が建てられています。
   


茜堂-兵庫一ノ谷(電車)

須磨一ノ谷、玄平古戦場、View Ichinotani.an Old Battlefield at Suma.、絵葉書、神戸元町栄屋印行発行。

大正6年4月12日に、須磨〜明石間を延伸した、須磨の海岸沿いを走る、兵庫電気軌道(現、山陽電鉄)で、左側(海側)が、山陽本線です。
車両番号は、明確には判読は出来ませんが、恐らく明石駅延伸の3年後に製造された、36形(36〜40号)だと思われます。
右上には、須磨温泉「須磨寿楼(現在でも存在しています)」の桜の朱印が、押印されています。
   

線路脇の、松の木の横には「一ノ谷鯖大師」の、石碑が建てられています。
貞照寺の本尊の、弘法大師木像は、右手に鯖を一尾さげている為、俗に、鯖大師の名で呼ばれています。
   

弘法大師が、四国からの修行途上、塩鯖を運んでいた馬子に、一尾所望したが、馬子が断った途端、急に馬が腹痛を起こしてしまった。
大師が、加持水を与えたら直ぐ治ったので、馬子は深く感謝し後に庵を建て、鯖を持った弘法大師を、祀ったと言う伝説が有ります。
平成7年の阪神淡路大震災により、貞照寺は全壊した為、現在、鯖大師と石仏は、須磨寺へ移されています。
   


茜堂-兵庫一ノ谷(SL)

須磨一ノ谷海岸、Ichinotani at Suma.、列車の進行、絵葉書(発行元は不明)です。

須磨一ノ谷海岸を疾走する、下り列車、牽引機は、神戸区所属の急行旅客用の、18925号機(18900型)で、
昭和3年10月1日(5月17日=鉄道省達第380号)の、車輌形式称号規程改正に因り、C51 26号機に、型式変更及び改番されました。
ナンバープレートは、型式入のボックス文字、ランボードには、白線が施されています。
   

18925号機は、大正10年に、汽車製造大阪工場で新製され、C51に変更される迄、神戸区で活躍をしていました。
撮影は、カマの状態から大正後期頃だと、思われます。また、左上に須磨温泉「須磨寿楼」の桜の朱印が、押印されています。
   


茜堂-須磨(C53流線-特急燕)

昭和11年6月、塩屋駅〜須磨駅間の、須磨の海岸沿いを走る、上り特急燕号牽引の、C53 43号機流線型です。
写真は、銀塩印画紙への、焼付け生写真、茜堂管理者=所蔵。

世界的な、流線型ブームに乗った鉄道省は、昭和3年の秋に、汽車製造大阪工場で製造された、梅小路機関区所属のC5343号機を、
昭和9年11月に、流線型に改造すべく、鷹取工場で20日の突貫工事で、試験的に、流線型化改造を終えています。
   

鉄道省唯一の、日本製3シリンダー機のC53型、その43号機は同型式では、唯一の、機流線型の蒸気機関車となっています。
その流線型は、C55型に受継がれ、昭和11年から製造された、2次型の20〜40号機の21両が、新造流線型仕様機として、誕生しますが、
点検や補修が煩雑な為、昭和25年から翌年に掛けて、流線型ケーシングが全機撤去され、標準型に戻されています。
   

将来の複々線化に向け、海側に道床の拡張が済み、後は線路敷設を待つばかり、鉄道が一番輝いていた、良い時代です。
昭和40年3月28日、戦争で頓挫した待望の、鷹取駅〜西明石間の、複々線化が完成致します。

茜堂-兵庫一ノ谷敦盛墓

写真帳の表題では「兵庫一ノ谷敦盛墓、十六歳討死、敦盛」と、記載されています。
一ノ谷の戦いで、寿永3年(1184年)2月7日に、若くして散った、16歳の美少年、平家の若武者敦盛供養の敦盛塚五輪塔、鶏卵写真。

   

茜堂-兵庫一ノ谷敦盛墓

各輪四方に、大きな梵字が、彫られています、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

一ノ谷の戦いで、一番乗りの功名を果たした、熊谷次郎直実が、馬に乗って沖の船に逃げる、敵武者を見つけ、戦う事になり、
組み伏せて、首を討とうとしたが、その武者は薄化粧をした少年で、清盛の弟経盛の子、敦盛16歳でした。
直実の実子と同じ年齢だったので、逃がそうとしたが、近くまで友軍が迫っていた為、断腸の思いで首を刎ねました。
   

熊谷次郎直実は、武家の無情を悟り、後に出家して高野山に登り、法然に仕えています。
源平攻防の大舞台となった、須磨一ノ谷にある、敦盛塚五輪塔は、高さ3.97mの大きな石塔は、室町末期〜桃山時代の作と言われ、
各輪四方に大きな凡字が刻まれ、京都の石清水八幡宮五輪塔に次いで、日本で2番目の大きさを誇る、石塔となっています。

茜堂-兵庫舞子の浜

写真帳の表題では「兵庫舞子ノ濱」と、記載されています。
舞子の浜は、東西1Kmにものぼる、白砂青松の景勝地、松林から望む淡路島は絶景、鶏卵写真。

   

茜堂-兵庫舞子の浜

白砂青松の景勝地、舞子の浜、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

うっそうとした舞子の浜の松原ですが、残念な事にこの写真には、根上り松らしき松は、映っておりません。
   

茜堂-兵庫舞子の浜

松原の中に佇む東屋、舞子の浜、絵葉書(発行元は不明)です。

東の須磨の浦から、西の明石の浦に接する景勝地、明治33年に、初の県立公園として「舞子公園」と、呼ばれる様になりました。
戦前迄、松林は保たれていましたが、戦後の環境悪化に因り、松林が衰退しましたが、対策に因って昔の松林に戻します。
明治時代には、海風や強い波に因って、砂が流された「根上り松」と、呼ばれた松が有り、再生の試みも始まっています。
   

明石海峡大橋の建設により、舞子公園の松が、南東の埋め立て地に移植され、舞子の浜を再現した、アジュール舞子が出来ました。
絵葉書は、発行元不明の物で、表面には1銭5里の切手が貼られ、消印として、明治45年1月3日の押印が有ります。

茜堂-兵庫の浜

写真帳の表題では「兵庫ノ濱」と、記載されています。
兵庫の浜と言えば、和田岬の事を言うのだろうか、この写真からは不明、鶏卵写真。

   

茜堂-兵庫の浜

兵庫の浜、和田岬なのか、須磨浦なのか判別不能です、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

写真帳のタイトルが「兵庫の浜」とだけ記されていて、写真からは、和田岬なのか須磨浦なのか、判別は出来ません。
兵庫と言えばマクロ的には、和田岬なのだろうが、アバウトな兵庫では、有名な須磨浦なのかも知れません。
須磨には「義経腰掛けの松」や「衣掛けの松」等、松にゆかりの有る、史跡が点在しています。

茜堂-和田岬明神

写真帳の表題では「和田ミサキ明神」と、記載されています。
和田岬明神とは、和田神社の事を言います。写真は移転前の、元の場所にあった和田神社、鶏卵写真。

   

茜堂-和田岬明神

移転前の和田神社の姿、別名、和田岬明神、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

太古の昔、蛭子大神が淡路島から、船で本州に到着した所が「蛭子の森」と言われました。
平清盛が、承安3年(1173年)に、市杵嶋姫大神を勧請。万治元年(1658年)5月23日に、大雨の影響で大洪水が起こり、
神輿が流れ着き、大きな木に引っ掛かっていた。天御中主大神の坐す押照宮の神輿で、後に、種々の神異を現した。
   

それを知った、当時の尼崎城主が、天御中主大神を主神にして社殿を造営し、その木を影向の松とし、和田の明神と言う様になりました。
明治34年(1902年)には、この地に造船所が建設された為に、和田神社は、現在の和田宮通りに移転されました。

茜堂-和田岬燈台

写真帳の表題では「和田ノ岬燈臺」と、記載されています。
和田岬燈台は、明治4年に竣工した、神戸港では、最初の近代的な八角の木製灯台です。左は、砲台(実戦未使用)、鶏卵写真。

   

茜堂-和田岬燈台

和田岬に建つ、初代八角の、和田岬燈台、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

慶応3年(1867年)4月に、幕府は、英国との間で結んだ大坂条約の中で、5基の洋式灯台の建設を、約束しました。
和田岬灯台は、この中の一つで、兵庫の開港を前に設置されたもので、明治5年10月1日に、初点灯されています。
初代の和田岬燈台は、木造様式灯台として誕生し、平面八角形で白色に塗られていました。
   

初代は木造の為、耐久性や耐火性に乏しいので、明治17年には二代目として平面六角形の鋳鉄製に、建て替えられました。
その際に、従来からの石油燈から、ガス(石油ガス)燈に、変更されています。
掲載の写真では、光源の灯室の下に有る、胴壁の丈が短いので、初代の木製灯台である事が、分かります。
   

ニ代目の灯台は、昭和39年に和田岬から、須磨海浜公園に、移設保存されてい「須磨の赤灯台」として、親しまれています。
移築後は、廃灯となっていますが、現存する、日本最古の鉄製灯台となっています。
因に、左手に有る円筒の建物は、勝海舟の設計で、文久3年(1863年)に着工し、元治元年(1864年)に完成した、砲台(臼砲台)です。



神戸を走った明治の陸蒸気=茜堂

明治7年5月11日からの、神戸〜大阪間鉄道開業に合わせて、英国に陸蒸気の製造を依頼し、
1号機関車(製造番号2102)、2号機関車(製造番号2103)、3号機関車(製造番号2104)、4号機関車(製造番号2105)の、
4両を輸入。
全てが、ロバート・スティーブン社製の蒸気機関車で、共に、西部地区(神戸)に配属されました。
   


茜堂-加悦駅2号機関車

昭和52年9月16日撮影、加悦鉄道加悦駅、2号機関車。

120型主要諸元=全長/8179mm、全高/3531mm、総重量/23.37t、空車重量/18.66t、軸配置/2-4-0(1B)、
動輪直径/1346mm、ボイラー圧(平方Cm)/8Kg、水タンク容量/2.3立方m、燃料積載量/0.85t。
   
明治6年6月に製造された、英国スチーブンソン社製の輸入機。明治7年に西部地区(神戸)所属、神戸〜大阪間の仕業に付きます。
明治45年鉄道院時代に、123号(120形)に改番されます。


昭平成17年6月9日には、車歴簿と共に、国の重要文化財(歴史資料)の指定を受け、現在は、屋根の有る展示場にて、保管されています。
後ろに連結されているのは、ハブ2、横の蒸機は明治11年4月に製造された、川崎造船兵庫工場製の3号機関車です。
   

茜堂-明治SL絵葉書 茜堂-明治SL絵葉書
茜堂-義経とC612

明治38年の年賀状。義経号(動態中の有火機)と、C61 2号機(中間検査A入場中)の、ツーショット。
昭和55年11月9日、鷹取工場にて撮影。

年賀状の絵柄は、西部劇風なヘッドライトに、ダイヤモンドスタックや、カウキャッチャーから、7100形と判断出来ます。
押印から差出し局が、兵庫県淡路島の福良であり、官営(山陽本線)化される、一年前となりますので、恐らく場所は、山陽鉄道で、
須磨の海岸線の上り列車(右側通行ですが)でしょうが、当時の7100形は、全車両が北海道。疑問符付きの絵柄です。

   
7100形は、アメリカ製蒸気機関車で、明治13〜22年の間に8両が輸入、その全部が北海道に投入されました。
最後の二両を除き、形式とは別に義経、弁慶、比羅夫、光國、信玄、静と各々に名前が付けられ、
その内、義経(大阪交通科学博物館)、弁慶(東京交通博物館)、静(小樽交通記念館)の、三両は現在でも、大切に保存されています。
   
それでは別途、時代と場所とテンダーから、考査しますと、山陽3形(5300形)か、山陽12形(5900形)と、なるのでしょうが、
山陽3形は、ドームが一本ですので、二本ドームのこの絵柄とは合いません。
山陽12形は、絵柄とは似ていますが、カウキャッチャーは、装備(不要)していないので、正体不明の摩訶不思議な絵葉書です。

   
尚、上記記載の、大阪弁天町の交通科学博物館は、平成26年4月6日に閉鎖され、義経は京都鉄道博物館に移籍されました。
東京神田の交通博物館は、平成18年5月14日に閉鎖され、弁慶はさいたま市の鉄道博物館に移籍されました。
閉館を繰り返していた、旧手宮駅の小樽交通記念館は、平成19年7月14日に、小樽市総合博物館に統合されています。



付録-生写真と絵葉書で見る明治期の風景=茜堂

茜堂-二見浦

神戸とは関係性が薄いですが、オマケとして掲載。明治初期の伊勢参り、二見浦(ふたみがうら)の夫婦岩、鶏卵写真。
平成28年15月26〜27日、日本では、8年振りのサミットとなった、伊勢志摩サミット(先進国首脳会議)が、賢島で開催されました。
先進国7箇国の首脳達が、夫婦岩の様にいつ迄も、仲良く手を繋いで、平和な未来へと、共に歩んで頂きたいと願います。
   

茜堂-二見浦の夫婦岩

伊勢市の二見興玉神社、夫婦岩、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。

明治期の写真では、大きな岩の頂上には、二見興玉神社の鳥居が建っていませんが、下の大正期の絵葉書には鳥居が映っています。
   

茜堂-二見浦の夫婦岩
茜堂-二見浦の夫婦岩(切手)

大正元年11月19日、伊勢二見浦夫婦岩、絵葉書(発行元は不明)、切手は、平成26年の82円切手です。

明治初期の交通事情を考えると、神戸からの伊勢参りは、可成り大変な旅だったのでしょう。
何せ、関西本線の前身の関西鉄道でさえ、亀山駅開業が、明治23年12月25日の事だから、恐らく、船旅でゆるりと参ったのでしょう。
今では、神戸から近鉄特急(臨)で、お伊勢さんまで一直線、2時間40分の旅、便利な世の中になっています。
   

伊勢市の、二見興玉神社にある夫婦岩は、一般的には「夫婦円満や家内安全」や「海上保安や大漁追福」の象徴とされ、
古くは、古神道に於ける磐座信仰(いわくらしんこう)で、自然に存在する巨石等を御神体とし、神が宿る場所として信仰しました。
その為、注連縄を飾り、鳥居を備えたりして、そこに神が鎮座している証としています。
   

因に、伊勢の二見浦に似た夫婦岩の有る海岸が、二見浦にちなんだ名の海岸が、各地に有ります。
福島県いわき市の二見ヶ浦と、福岡県糸島市の二見ヶ浦(筑前二見ヶ浦、桜井二見ヶ浦)等で、後者は非常に良く似ています。
   

当頁の緻密な手彩色の、外国人向け絵葉書は、米国や英国での発掘品で、当時の日本人がお土産で購入する様な、安易な手彩色では無く、
価格もさる事ながら、緻密で繊細な手彩色が施され、まるで絵画の様な趣きさえも醸し出しています。
   

尚、明治期の写真に付きましては、昭和31年12月31日以前の物ですので、既に、著作権が失効されていますが、
当頁内の、鶏卵写真画像に就きましては、全面に渡り、スポッティングや、画像補正等の特殊修整加工を、施しておりますので、
作品画としての、新たな著作権が発生しております。無断複写や盗用等は、硬くお断り申し上げます。
   

また、当頁内、白茶色(セピア、アンバー系)の生写真のみが、明治6〜9年頃に撮影し焼き付けされた、明治期の鶏卵写真となります。
その他の絵葉書、銀塩白黒写真、切手類等は、必ずしも明治期の物では無い事を、ご了承願います。




解説に於いて、誤記や解釈の違いにより被られた不利益につきましては、当方では一切関知しないと共に、責務を負えない事をご了承願います。
撮影場所につきましては、区画も変わっており厳密ではございません。町名相違の場合にはご容赦下さいませ。
本文中、敢えて旧漢字を使っている部分も有ります。混在しておりますが、こちらもご容赦下さいませ。

掲載画像に就きましては、茜堂所蔵の絵葉書や鶏卵写真に、画像修正を施して居りますので、新たな著作権が成立して居ります。
無断複写や盗用等は、慎んで下さいます様お願い申し上げます。

   
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