幻の筑前芦屋駅/茜堂

幻と言われた国鉄芦屋線筑前芦屋駅=茜堂

且つて、九州には国鉄芦屋線と言う「幻の路線」と呼ばれた、旅客鉄道路線が有り、
鹿児島本線遠賀川駅から分岐し、終点の筑前芦屋駅迄を結ぶ、たった1駅区間の路線距離5.5キロの、短い路線でした。
戦後、日本陸軍芦屋飛行場を進駐軍が接収し、米空軍芦屋基地になり、その際に、物資輸送用の進駐軍専用側線が建設されました。
   

建設費は、大蔵省の終戦処理費に依って支出され、第二次世界大戦後に、日本を占領した連合国軍の経費の内、
講和条約締結時に、相互請求権の総額を確定させる為の、経費区分で、占領当初は大蔵省が、日銀に立替払いをさせると言う、
暫定予算でしたが、昭和21年、芦屋線建設時には、正式計上され、日本政府が一般会計から、支出した物となっています。

茜堂-芦屋線開業の時

芦屋線の路線は、大正7年から昭和7年迄、運行されていた軽便芦屋鉄道の、廃線ルートの大部分を利用しています。
軍用線の為、路線の管理形態が複雑で、当初は大蔵省の所有路線として、昭和22年3月3日月曜日に開業します。
   
開業日の始発列車は、遠賀川駅発の混合列車の筋で、貨物列車として、7175列車が努めました。
翌日4日からは、乗客輸送が開始され、前日は運行されなかった7172列車、芦屋乗降場発が始発列車として運行します。
その後、昭和25年2月10日に、業務を国鉄に委託する事になり、国鉄芦屋線として、一般乗客に開放される事となりました。

   

昭和36年6月1日には、米空軍芦屋基地輸送が前日に終了されると共に、人知れず芦屋線は、静かに廃止されています。
営業期間中は、委託路線と言う事も有り、正式な国鉄路線との認識が各方面で薄く、九州地方の時刻表には、辛うじて記載されていましたが、
全国版の時刻表には、記載されていない場合が多く、多くの方々が、芦屋線の存在すら知ら無かった事は、言う迄も有りません。
   
以上の理由から、幻の芦屋線と言われ、切符類等、滅多にお目に掛かる事は無く、又、写真資料等も余り残されておりません。
米軍基地で有るが故に、携わる関係者も余り居らず、当時の鉄道ファンですら、存在自体の情報も希有な上、
芦屋線自体の営業期間が、一般開放後11年4ヶ月弱と短い事から、幻の駅たる所以となっています。
   

終着駅の筑前芦屋駅は、駅の構内形態も複雑で、基地の敷地内外に股がり、筑前芦屋駅は基地外に有った運転室を指し、
基地従事者のみが利用出来る、芦屋乗降場は、構内唯一の旅客用ホームで、基地内に有った駅本屋を指しています。
日本人が乗車可能な営業距離は、遠賀川駅〜筑前芦屋駅間の5.5キロで、全長を、遠賀川駅〜芦屋乗降場間の、6.2キロとしています。

茜堂-入場券と乗車券

その幻の駅で有るが故に、存在する切符類も非常に乏しく、資料制に欠け、正に幻の切符となっています。
入場券に至っては、わざわざ駅迄、訪れる旅人も少なかった事から、入鋏痕の無い無傷の入場券は、稀な存在となっています。
さて、気になる、筑前芦屋駅発行切符の入鋏痕ですが、中段に有る様な、鋏痕番号1番の四角の痕形をしていました。
   


茜堂-筑前芦屋駅赤線入場券(表) 茜堂-筑前芦屋駅赤線入場券(裏)

昭和36年5月31日(廃止最終日券)、普通入場券、筑前芦屋駅、10円、筑前芦屋駅発行、国鉄、門司印刷場10円3期券。

入場料金は、他駅と同様の初乗り料金で有る、10円が課せられています。
日付印字機は「菅沼式乗車券日附器」を使用しています。当然この時代に「天虎式」は、まだ登場していません。
因に、天虎式乗車券日付器は、天虎工業設立時の昭和41年に登場し、後に「菅沼式」を駆逐するかの様に、駅での定番となっています。
   
筑前芦屋駅のダッチングの、日付けの後ろの3桁目には、見慣れない「長方形」の印が、付けられています。
さて、このマークは何だろうか、3桁目に付く、菅沼の翌収印なのだろうか、時期的には符合するが、
昭和25年1月24日には、菅沼で翌収扱いの印である「ヨ」が付いた、日付印字機が既に登場している為、また謎が深まります。
   
筑前芦屋駅での、入場券の売上頻度は、廃止間際の半年間でも、滅多に売れず、平均すれば週に1枚程度の、発行で有った様です。
旅客列車は、折尾駅起点となり、蒸気機関車牽引の客車1両のミキスト(混合列車)で、一般乗客は余り居なかった様です。
また、時刻表に依っては「筑前芦屋」と「芦屋乗降場」の、2箇所の時刻が記載されたり、複雑怪奇な路線となっていました。

   


茜堂-乗車券(筑前芦屋駅〜遠賀川駅)表 茜堂-乗車券(筑前芦屋駅〜遠賀川駅)裏

昭和36年3月12日、普通乗車券(前期流用券)、筑前芦屋駅〜遠賀川駅、20円、3等、筑前芦屋駅発行、国鉄、JNR赤地紋、門司印刷場券。

昭和35年7月1日の施行(6月23日=国有鉄道公示第294号、総裁達第344号)にて、
従来の3等級制(1等、2等、3等)から、新たに2等級制(1等=旧2等、2等=旧3等)へと、変更されます。
旧2等が新1等へ、旧3等が新2等へ、これにより3等が廃止されますが、特殊な過疎路線で有った為、余剰券を流用しています。
   
次の乗車券同様、小児断線右、乙片の駅名表示は発駅着駅共々、短く省略する事無く、全ての文字が表示されています。
当然の事乍ら、中間駅が無い為、当券には、下の券に付けられている、下車前途無効の記載は有りません。
若し、現在の九州支社管内に、筑前芦屋駅が存在していたら、鋏痕は「い段」の駅で、2番の家形になっていた事でしょう。
   


茜堂-乗車券(黒崎駅〜筑前芦屋駅)裏
茜堂-乗車券(黒崎駅〜筑前芦屋駅)表

昭和36年3月12日、普通乗車券(前期流用券)、黒崎駅〜筑前芦屋駅、40円、3等、黒崎駅発行、国鉄、JNR赤地紋、門司印刷場券。

当券の乗車当時の駅数は、黒崎駅、(陣原駅)、折尾駅、(水巻駅)、遠賀川駅、筑前芦屋駅の3駅間となり、乗車時間は35分程の旅でした。
括弧内の駅は近年の新駅です。また、当券の乗客は、折尾駅での乗換では無く、遠賀川駅での、乗換で有ったと思われます。
何故ならば、確率論的に言えば、下り列車の殆どが、折尾駅発では無く、遠賀川駅発となっていた為である。

   

筑前芦屋駅迄の乗車形態は、近隣のみが硬券で、やや複雑な措置が取られ、九州内の各線相互間でしか、直通の乗車券の販売は行われず、
その他の区域から、
筑前芦屋駅迄を乗車する場合には、遠賀川駅で一旦、距離計算が打ち切られ、
芦屋線内は、3等20円の別立運賃となっていました。当然、硬券類は存在せず、通しは補充式乗車券の発行のみでした。
   

尚、昭和25年8月1日、鉄道機構改革の為、幡生駅迄が門司鉄道管理局の、管轄となったのを受け、
同日から、本州への乗車距離最長駅常備券として、幡生駅の一駅手前の下関駅迄の、筑前芦屋駅発の、常備A型硬券を発行しています。
また、幡生駅へは運賃乗車距離が、米子局の綾羅木駅にも股がる為、常備券は無く、補充式乗車券の発行となっています。



路線の基となった芦屋鉄道との関連=茜堂

軍の引込み専用線で始まり、乗客はオマケで且つ、委託路線で有った事から、国鉄芦屋線は、正式な国鉄路線との馴染みが無かった。
その為、関係者からも、国鉄の営業路線では有るが、国鉄線では無いと揶揄されていた様です。

茜堂-国鉄芦屋線と関連線の路線図

さて、鹿児島本線遠賀川駅からの、大まかな国鉄芦屋線の路線図をご覧下さい。
黒色の路線が、鹿児島本線で、緑色の路線が、芦屋線の基盤となった軽便芦屋鉄道で、赤色の路線が芦屋線です。
路線が重なる部分は、赤色の路線の芦屋線を、優先させて居ります。
   

茜堂-国鉄芦屋線路線図 筑前芦屋駅構内の、貨物操車場跡地には、第二緑ケ丘団地が建てられ、
筑前芦屋駅の駅長や、助役の宿舎跡は、高浜町児童公園となっています。
その公園の一角には D60 61号機 が、保存されています。
   

廃線跡の殆どは、福岡県道285号浜口遠賀線(芦屋町浜口〜遠賀町今古賀)に、
転用され、筑前芦屋駅近くは、部分的に国道495号に転用さています。
   

国鉄芦屋線は、米軍基地の物資輸送を、主な目的とした為、途中駅は無く、
遠賀川駅と筑前芦屋駅の、両端の二駅のみでした。
   

軽便鉄道の芦屋鉄道株式会社線では、西芦屋駅を起点として、東芦屋駅、
浜口駅、島津駅、鬼津駅、松ノ本駅、遠賀川駅の七駅で、営業距離6.06Km。
筑豊地域の石炭を、港迄の積出路線とし、貨物と旅客で開業しました。
   

浜口駅は、大正6年1月10日に、島津方へ0.2Km移転しています。
また、翌年の11月15日には、島津駅は廃止されています。


■国鉄芦屋線の時刻表

茜堂-国鉄芦屋線時刻表
右上の時刻表は、日本交通公社発行、昭和26年9月1日号、九州編時刻表の、国鉄芦屋線の列車時刻で、先月から1往復増便されています。
列車番号が、7000番台の珍しい番号が、付けられていますが、これは臨時列車の内、季節列車として使われる数字です。
芦屋乗降の記載となっていますが、こちらは時間的に芦屋乗降場を指し、何故か筑前芦屋駅は省略されています。(周囲、画像処理)
   

国鉄芦屋線に中間駅が無いのは、距離的な事以上に、米軍の貨物輸送を主体とし、従で有る乗客も、基地従事者だけで有った為で、
後に、乗客として日本人にも、開放されたとしても、中間駅を設けると言う事は、主となる貨物輸送上、有り得無かったのです。
   

芦屋乗降場は、米軍専用線時代に米軍が設置した物で、国鉄に移管された後での位置付けは、
国鉄本社の認可に基づき、設置される一般の鉄道駅とは一線を引かれ、地方の管理局の判断で認められ、設置される、
仮乗降場として扱われています。その為、国鉄の慣例に因り、新設時の筑前芦屋駅の駅名標の隣駅表示箇所には、表示されて居りません。
   

立派な屋根の有る、旅客ホームと駅舎を持つ、芦屋乗降場に対し、当初の筑前芦屋駅は、運転室を間借りする貧相な駅で、
まるで、駅と仮乗降場が入れ替わっている、そんな状況下に有りました。
戦後の、勝戦国米国と敗戦国日本の、立場を表す縮図の様な、国鉄芦屋線でした。
   

昭和25年6月25日〜昭和28年7月27日間の、朝鮮戦争に於いては、米軍芦屋基地が、朝鮮半島の前線への、一大輸送基地となり、
軍事物資の、輸送量が増加するに伴って、時刻表に掲載される混合列車とは別に、臨時貨物の運行本数が増えています。



現在の国鉄芦屋線の終着付近の風景=茜堂

現在は、国鉄芦屋線の遺構を、直接見る事は出来ません。単線区間で有ったその路線の多くは、廃線後に拡張工事がなされ、
その殆どが、県道285号と、国道495号とに変貌している為、橋脚跡はおろか、良く目にする境界杭すら見つかっていません。
昭和の後期頃迄は、遠賀川駅博多方の芦屋線への離合部には、当時のレンガや石積壁の跡が、有ったと言う事です。
   

現在、当時の路線跡として残されているのが、遠賀川駅を出て、今古賀の大きなUカーブの有った、
八劔(はっけん)神社
付近の一画に残る、100m余りの曲がった道と、終着地付近の大カーブの跡地の、僅か2箇所です。
それでは、駅手前の戻り大カーブが始まる地点と、筑前芦屋駅貨物操作場跡地の、現在の画像をご覧下さい。

茜堂-遠賀川駅分岐の大カーブ付近

右下の画像を除き全て、筑前芦屋駅進行方向に向かっての、撮影です。
当時のこの地点は、一面の田畑で、遠賀川駅からは遮る物が無かった為、180度もの戻り大カーブは、圧巻で有った事でしょう。
   


茜堂-芦屋線廃線分岐点

鹿児島本線遠賀川駅から、西川橋梁を越えて、西川に隣接する西川下踏切からの、眺望です。
芦屋線の分岐点は、右から2本目の、コンクリート架線柱辺りから、右側に急カーブを切って、本線から離れて行きます。
次画像は、大カーブ地点を横切る県道299号から、丁字交差点で始まる彎曲した道路で、100m先も丁字路で、公園に突き当たります。
   


茜堂-芦屋線廃線跡 茜堂-芦屋線廃線跡

周辺道路は全て直線なのに、この道路のみ緩やかに、右カーブを切り、然も、僅か100m足らずで途絶え、直進する道は無い。
先を進むと、塔ノ元第二公園で突き当たる、丁字路(右写真=
公園側から鹿児島本線方を望む)となっている。
恐らく、この区間のみ、神社前に集まった家屋が、線路際に有った為に、廃線後の区画整理でも、道路として残されたので有ろう。
   

鹿児島本線分岐の大曲区間で、この一区画のカーブ以外は、一切道路化されていない。
当時この道路は、線路際に張り付いた、小道だったと思われる。それ以外の大カーブ線路跡の全ては、田畑と宅地化され、
鉄道の遺構は、何一つ残されてはいません。撮影は共に、平成27年6月21日。


現在の国道495号と離合する、左カーブ地点は、可成りの急カーブで有る事が良く分かります。
終着の直近で有る事から、然程、カントは付けられていなかったと思われます。
   

茜堂-芦屋線廃線跡 茜堂-芦屋線廃線跡

左側の画像は、中央の建物左側をカーブをし、現在の国道495号から離合して、駅へと進入する地点です。
撮影地点は、東芦屋小学校前の鶴町団地バス停付近から見た、終着地の貨物操車場、芦屋乗降場へと向かう、国鉄芦屋線の廃線跡です。
右側の道路では無く、中央に写る狭い道が、国鉄芦屋線の廃線跡となり、左へ急カーブを切り、少し奥が柵外の筑前芦屋駅跡地となります。
   
右側の画像は、急カーブを切った廃線跡の道路が、住居に因って閉ざされています。
ちょうど、この建物や銀行辺りが、筑前芦屋駅構内の東側辺りとなります。撮影は共に、平成27年5月29日。
   


左側の画像の、青色の銀行看板が有る辺りから、分岐入線し、米軍基地内の貨物操車場へと、広がって行きます。
左右の画像は、概ね、繋がってパノラマ的になっていますので、この貨物操車場の規模が、大凡分かるかと思います。
当時の米軍基地との境界線は、この道路となっていて、柵内に道路が入っていました。尚、現在の道路は拡張されています。
   

右側の画像は、同じく広大な米軍基地貨物操車場構内跡に林立する、10階建てと5階建てからなる、10棟もの大規模な第二緑ケ丘団地です。
竣工は、昭和46年(一部、昭和50年)で、実に筑前芦屋駅が廃止されてから、10年後の竣工となっています。



古の写真で見る筑前芦屋駅の姿=茜堂

以下の画像には、晩年期の国鉄芦屋線、筑前芦屋駅で出発を待つ、蒸気機関車牽引の上り混合列車と、
貴重な、筑前芦屋駅の改札口や駅前広場、ホームには花壇と木製駅名標に、植栽に因る、ラッチ外の大きな木が写されています。


設備も時代相応に整って来た、国鉄芦屋線の、晩年期の筑前芦屋駅の姿ですが、
開業当初は、軍の重要な施設とリンクしていた為、残念乍ら、開業当初の筑前芦屋駅の姿は、余り記録されて居りません。
当然、米軍基地内に位置する芦屋乗降場の写真等は、防諜の観点から撮影されず、お目に掛かる事は無いでしょう。
   


茜堂-筑前芦屋駅構内

上記写真は、廃止1年前の昭和35年5月31日に、筑前芦屋駅構内にて、撮影された物です。
牽引機の直後の客車は、切妻のスハフ44で、曲線と影の具合から、午後の上り列車で、筑前芦屋駅の出発待ちのところです。
機関車の右奥に便所と植栽が、左側には、貨物操車場へ伸びる、複数の引込線が見て取れます。尚、下りは機関車が逆牽きとなります。
   

写真の機関車38642は、昭和32年11月1日〜昭和38年3月31日迄は、運用区で有る若松機関区に、在籍をしています。
この機関車38642の読み方は、3万ハチロクの42と読み、その型式は8620型と呼ばれ、8620が1号機となり、8699が80号機で、
次の81号機は、頭に1を付け18620となります。この順列から38642は、8620型の263号機となっています。
   

この複雑なナンバー方式は、昭和初期以前の型式の付け方で、以降の分かり易いC型、D型のナンバー方式とは大きく異なり、
型式を全て数字だけで表し、1〜4999迄をタンク機関車に、5000〜9999迄が、テンダー機関車とされていました。
その為、C型、D型のナンバーでの、号機の解り易さに比べ、とても複雑な計算が必要となっています。
   


茜堂-筑前芦屋駅ホーム

昭和30年前半の、筑前芦屋駅の駅名標が見えます。一見、終着駅の趣きですが、基地内の外国人専用の乗降場へと続きます。
何故、終着となる乗降場で有る、隣駅名が記されていないのか、国鉄の規定で乗降場は隣駅表示には、記載されない事になっている為です。
その為、駅名標の隣駅表示(下り)が空白となり、あたかも、この地が終着駅で有るかの様に、見えてしまうのです。
   

駅名標は、駅ホームの植栽内に設置されています。撮影は、終点側から入線方向を向いています。
昭和30年12月29日に、ホームは駅舎方に70m延伸されていて、カーブを切っていますが、延伸迄は直線ホームで有ったと思われます。
ホームの端の先方には、扇状に広がりつつ有る、貨物上屋へと伸びる線路が垣間みて取れる、とても貴重な写真です。
   

また、写されている建家は、上段写真と同じ建家で、線路に面している為、手前に駅舎を兼用した、操車掛かりの詰所だと思われます。
旅客ホームに花壇が有り、その後方に樹木が有る事から、昭和30年6月15日以降の、撮影に依るものです。
   


茜堂-筑前芦屋駅改札口

昭和30年前半の、
筑前芦屋駅の改札口が、写っていますが、上段写真の建屋の左側となり、ラッチ内とラッチ外に、段差が有りませんが、
この場所はホームからの坂を、下って来た場所に位置し、画面手前には、建屋の左側のホームの一部が写されています。
左側に、補助改集札口が4箇所有る事から、昭和30年8月29日以降の、撮影に依るものです。
   

上記3枚の画像は共に、芦屋町教育委員会生涯学習課文化係様から、提供して頂きました。(茜堂にて画像修正)



芦屋線芦屋乗降場と筑前芦屋駅の歴史=茜堂

明確な資料が無い中、当時の現場で従事されていた、国鉄職員の個人的な日記メモが見つかりました。
事細やかに、記録をされていますが、残念な事に辞められたのか、転属になったのか、廃止前の5年半程の記録が欠落しています。
開業日が、巷で言われている2日や、公園碑文の10日では無く、3日となっていて、旅客輸送が4日からとなっています。
   

文中一箇所、列車本数の件では、時刻表と1本異なる部分が有り、これのみ時刻表の本数に合わせて居ります。
また、運行形態、略語や専門用語、通達表示に就きましては、当方にて補足をさせて頂きました。

茜堂-芦屋乗降場と筑前芦屋駅の沿革

昭和22年3月3日##芦屋線が開通し、遠賀川駅駅長管理として発足。
昭和22年3月4日##航空基地労務者の輸送開始。(発駅より往復乗車券購求)
######      乗降は柵内の乗降場(駅本屋)とし、当取扱いは、筑前芦屋(運転室)の柵外で取扱う。
昭和22年4月27日#RTO(進駐軍鉄道事務所=Railway Transportation Office)事務室が、駅長室常置となる。
昭和22年9月15日#要求に依りRTO事務室と、駅長室間に壁を設く。
昭和22年11月17日3番線縦(高床)ホーム設置、第2ボイラー線(200m)新設。

昭和23年7月19日#占領軍貨物事務取扱開始。遠賀川RTOが、筑前芦屋駅と分離する。
昭和23年9月1日##遠賀川駅駅長管下から独立して、筑前芦屋駅駅長を任命する。従来の全員特種日勤が徹夜勤務となる。
昭和23年12月28日柵外傍乗降場設置(浜口側)。労務者輸送、遠賀川筑前芦屋駅間の所、その一部が折尾迄、延長運転される。

昭和24年2月28日#RTO倉庫に、RTO事務室が移転。
昭和24年3月25日#駅長宿舎新築。
昭和24年8月1日##LCL(米軍小口扱貨物=Less than Container Load)の取扱の開始。
昭和24年9月1日##従来の遠賀川〜筑前芦屋間列車の票券式が、通票式となる。
昭和24年10月22日小倉〜筑前芦屋間に近郊列車運転開始の為、連合軍人及びその家族に対し、乗車券の発売を開始する。
昭和24年12月10日従来の航空基地外柵を、日本人輸送の為、線路の内側に移転する。
昭和24年12月13日芦屋町の請願に依って、日本人輸送用の旅客ホームが完成。
昭和24年12月25日芦屋町の請願に依って、日本人輸送用の出札手小荷物室が完成。

昭和25年2月10日#一般日本人の輸送をしても良いとの事で、門司鉄道管理局局長管下の九州線内(除く、連帯線=連絡線)の、乗車券、
######      及び、手小荷物の取扱い(配達の取次ぎ無し)を開始。(昭和25年2月4日=国有鉄道達乙第82号)
######     旅客輸送の為、混合列車(ミキスト)として、遠賀川〜筑前芦屋間に、5往復運転される。

注意=これに関する米軍よりの書類は、筑前芦屋駅には、何も残されていなかったが、
門司鉄道管理局(昭和24年8月1日、鉄道局を鉄道管理局に改組)としては、以下の様な書類により取扱ったと言う。

第八航空隊司令、昭和25年2月4日、関係各位、
1.当司令部は、芦屋町鉄道側線を敷設する事に関し、何らの異義を有しない。
2.進駐軍輸送に支障を及ぼさない限り、遠賀川と上記芦屋側線間の使用に対しては、何らの異義を有しない。
米国航空隊司令、ダニエル・A・クーター大佐

昭和25年2月28日#第1期運転無事故完成(18箇月)。
昭和25年6月25日#朝鮮事変勃発(〜昭和28年7月27日=休戦)の為、輸送繁忙となる。
昭和25年7月5日##入換機関車1機が、筑前芦屋へ常駐となる。
昭和25年8月1日##鉄道機構改革の為、山陽本線の幡生駅迄が、門司鉄道管理局管轄となったので、
######      旅客、手小荷物の取扱いに、下関駅、幡生駅の2駅を追加した。
######      (昭和25年8月1日=国有鉄道告示第14号、門司鉄道管理局達乙第500号)
昭和25年9月19日#入換機関車3機が、常駐となる。(遠賀川=1機、筑前芦屋=2機)

昭和26年2月15#福岡特別調達局から書面に依り、芦屋線、及びその設備の一切を、国鉄に譲渡するとの書面を、局長に取次ぐ。
昭和26年5月21日#一般運輸営業開始方促進の為、芦屋町長黒山高麿氏より、営業支配人、及び門鉄局局長に陳情書を提出した。
昭和26年8月1日##5往復の混合列車を、6往復とした。(上段の翌月号の時刻表を参照の事)
昭和26年8月30日#駅物品倉庫が狭隘(狭くゆとりが無い)の為、その拡張方を申請中で有ったが、予算の関係から出来ないと、
######      貨車の廃車1輛を受入れ、仮倉庫とした。
昭和26年8月31日#第2期運転無事故完成。
昭和26年9月30日#浴場が無く困っていたが、風呂桶が来たので即日、浴場を作り使用を開始した。
昭和26年12月5#常駐機関車2機となる。(遠賀川=1機、筑前芦屋=1機)
######     機関手交代、または給水の為、臨時(不定期の意)列車で遠賀川迄上げていたのを、定期(臨時季節)列車とした。

昭和27年1月19日#7番線(石炭荷卸場)斜線に、車留5個取付。
昭和27年2月9日##駅舎内部、ペイント塗替えを終える。
昭和27年3月7日##電燈の増設、出札窓口=2個、仮改集札口=1個。
昭和27年3月17日#筑前芦屋駅第2号宿舎(バラック式)が完成したので、第1号宿舎を助役宿舎に変更をし、第2号宿舎を駅長宿舎とした。
######      第2号宿舎、駅長の住所は、芦屋町3085番地であった。
昭和27年3月25日#仮改集札口の開閉扉を、2箇所設置。
昭和27年3月26日#筑前芦屋駅第1号宿舎に、道庭助役が入舎。
昭和27年3月29日#道庭助役が退去した、折尾長崎第14号宿舎に、青木運転掛が入舎。
昭和27年3月31日#連合軍旅客貨物規程が改正され、本日限りで、RTOが廃止される。(国有鉄道全部)
昭和27年4月17日#要求中であった、列車の発車予告ベルの使用開始。
######     軍専用電話を、筑前芦屋駅から撤去。
昭和27年4月28日#筑前芦屋駅舎内のRTO柵を取外したので、各職の机配置の変更。
昭和27年5月31日#POL(積地港=Port of Loading)1番新線(43m)完成。
昭和27年6月30日#時報伝達用として、折尾交換芦屋1回線の電話機を取替え、同時に時報ベルを設置。
昭和27年7月12日#3番線が低く、雨で浸水するので地上げ要求中の所、本日、地上げが完了。
昭和27年7月31日#5番線車止付近、並びに60号、61号転轍器付近に外柵が出来た。
昭和27年8月15日#芦屋線の諸設備は、鉄道経費と渉外費に分かれているが、本日迄に判明している物は、以下の様である。

鉄道経費として、
線路=80m、建物=駅長室、運転室、線路班詰所、踏切番舎。
渉外費として、
線路=6.2Km及び側線、通信=電柱94本、電話機11台、電話線11張、電話線延長3.9Km、電力=電柱38本、電燈線延長4.015Km。

昭和25年4月30日現在の芦屋線建設費用として、
軌条敷設費=1763万8755円、電燈関係費=64万2070円、通信関係費=67万8072円、駅長室建設費=42万2862円、
運転室建設費=16万9002円、線路班建築費=14万906円、踏切番舎建築費=2万7955円、計=1971万9622円。
土地は、まだ鉄道の物になっていない為、これに土地代は含まない。
出札、手小荷物室、及び橋梁の取替に因る新設は別とする。

昭和27年10月1日#常駐入換機関車1機となる。
昭和27年12月15日駅長室側に井戸を1箇所新設。
######      (芦屋線新設と共に駅長室、運転室とも軍の水道に依り、これを使用していたが、夏期水不足の際、
######      軍が、飲料水以外の使用を禁止すると云うので、井戸を掘ったもの。)

昭和28年1月10日#筑前芦屋駅とRTO、及びPOL間に軍用電話(野戦用)の設置。
昭和28年1月13日#RTO事務室便所(駅員用)大便所の修理。
昭和28年1月15日#芦屋ベース内(RTO)に、交通公社の設置。
昭和28年1月22日#上り出発信号機建植替え。(従来の物と同位置にて取替える)
昭和28年1月31日#駅長室、運転室共、電燈線の全部取替え。(建設当時の電燈線は、粗悪で有った為)
昭和28年2月7日##構内照明用電柱を移植。(旅客ホームの照明を兼ねた)
昭和28年3月19日#芦屋ベース内の交通公社に、鉄道電話を設置。(折尾交換芦屋2回線に連接)
昭和28年3月31日#駅舎内電燈用配電盤の取替え。
昭和28年6月18日#駅長室、運転室間の連絡用構内電話機の壁掛で有った物を、卓上電話機に変更する。
昭和28年6月26日#遠賀川駅付近水害の為、列車運転不能となる前に、午後6時台の上り7256列車を最後として、
######      以降、芦屋線内には機関車、客車共に無し。
昭和28年6月28日#大洪水の為、芦屋線(遠賀川駅起点)4.3Km〜4.95Km間の、線路が流失。
昭和28年7月4日##保線区と軍の立会に依り、午後7時から線路復旧工事に掛かる。
昭和28年7月6日##線路復旧工事が、午後2時に完成。
昭和28年7月7日##線路復旧工事は出来たが、遠賀川駅保安装置が未完成の為、本日午前7時台の下り7175列車から、芦屋線開通。
昭和28年7月25日#第33号踏切保安装置を撤去。
昭和28年9月9日##従来の第33号踏切と運転室との間に、軍の要請に因り第1種踏切道を設置。
######      これに依り、踏切警戒手2名を増加。(場所=遠賀川起点4Km、踏切番号=31号の2)
昭和28年9月10日#筑前芦屋駅運転無事故表彰は、20箇月となる。(門司鉄道管理局達甲第437号)
######      次回は、昭和29年10月12日で、4期連続となる予定。
昭和28年9月25日#54号転轍器の標識取替え。(従来の物が旧式な為)
昭和28年10月5日#筑前芦屋駅営業無事故表彰の、30箇月をそのままととする。(門司鉄道管理局達乙第-不明-号)
######      第1期完成の予定を、昭和29年1月3日とする。
昭和28年10月23日第1ボイラー線63mを230mに延長し、在来の所で石炭荷役、新設の所で冷凍荷役を行う。

昭和29年1月3日##筑前芦屋駅営業無事故第1期完成。
昭和29年1月7日##ベース(米軍基地)内の立入りを、パスポートに依り出入りしていたものを、外務課の交渉に因り、
######      駅長責任に依る腕章15枚備付けで、これに依り出入りする事とした。
昭和29年1月26日#駅長室出入口の扉外4軒に屋根を付けた。
昭和29年2月8日##芦屋線混合列車に、暖房器使用開始。(機関車の逆牽用暖房配管が無い為、当面、テンダー直結の上り列車のみ使用)
昭和29年3月4日##RTO事務室便所、大々的な修理が完了。
昭和29年9月7日##駅長室ストーブの煙突取付口、屋根裏に防火設備を施した。
######     荷物保管棚下段に、鍵付簡易保管庫を作った。
昭和29年10月13日運転無事故第4期完成。(73箇月)

昭和30年2月9日##出札室切符売場と、荷物取扱所の仕切りを新設。
昭和30年3月25日#貨物列車1往復を準混合列車とし、旅客6往復を7往復とした。
昭和30年4月14日#収入事務成績向上期間に於ける、成績優秀を以て表彰。
昭和30年5月5日##旅客ホームを整斉した。
昭和30年6月15日#旅客ホームに花壇を造り、駅前に植樹を施した。
昭和30年8月29日#補助改集札口を4箇所とし、改修完了。
######      これに伴い、車の出入口(停車)を従来の補助改集札口の所から、職員便所裏に移動した。
昭和30年12月29日浴場の新築完成。
######     旅客ホームの延伸工事完成。(70m駅舎側に延伸)

以上の国鉄芦屋線沿革は、
芦屋町教育委員会生涯学習課文化係様から、資料提供をして頂きました。(一部、茜堂筆者補足、無断転載不可)
芦屋町教育委員会生涯学習課文化係の、主任主査学芸員山田様には、大変貴重なお話しをご教示頂き、
また、貴重なお時間を頂戴致しました事、この場を借りまして、感謝申し上げます。

芦屋基地返還関連の年表を、以下に補足致します。


茜堂-芦屋基地返還関連の推移

昭和17年12月 ##旧日本陸軍が、戦闘機用飛行場として発足。
昭和20年10月 ##米軍に接収され、米軍芦屋飛行場として使用開始。
昭和21年8月 ###米軍芦屋飛行場内に、対地射爆撃場を開設する。
昭和22年3月3日##米軍芦屋基地への、物資輸送貨物専用線が、鹿児島本線支線として開通。
昭和22年3月4日##米軍芦屋基地従事者の、旅客輸送が芦屋線として始まる。
昭和35年1月 ###米軍芦屋飛行場返還計画に基づき、対地射爆撃場を芦屋飛行場から分離し、芦屋対地射爆撃場となる。
昭和35年5月31日#米軍芦屋基地への、物資輸送列車及び乗客輸送列車が、本日を以て終了となる。
昭和35年6月1日##米軍芦屋基地への輸送路線、国鉄芦屋線の廃止。

昭和35年8月 ###臨時芦屋管制隊、及び臨時芦屋気象隊の新編。
昭和35年11月 ##米軍芦屋基地が返還され、米軍が撤収し、臨時芦屋基地隊の編成。
昭和36年2月 ###航空自衛隊芦屋基地として、自衛隊が管理し、西部航空施設隊の新編。
######     芦屋管制隊、及び芦屋気象隊(航空支援集団隷下)に改編し、芦屋警務分遣隊の新編。
昭和36年3月 ###岐阜から、第3術科学校(航空教育集団隷下)移駐。
昭和36年7月 ###航空救難群芦屋救難分遣隊(航空総隊隷下)新編。
昭和37年10月 ##宇都宮から、第13飛行教育団(航空教育集団隷下)移駐。
昭和39年12月 ##航空救難群芦屋救難分遣隊を、芦屋救難隊に改編。
昭和41年2月 ###第2高射群第2整備補給隊、第5、第6中隊(西部航空方面隊隷下)新編。
昭和44年10月 ##第2高射群第2整備補給隊、第5、第6中隊を、第2高射群整備補給隊、第5、第6高射隊に改編。
昭和47年3月31日#米軍より、芦屋対地射爆撃場の正式返還。

昭和47年11月1日#米軍撤収後に、芦屋町の要請に依り、岡垣対地射爆撃場に名称を変更し、自衛隊が使用。
昭和53年5月 ###芦屋警務分遣隊を、芦屋地方警務隊(防衛大臣直轄部隊)に改称。
昭和53年6月7日##岡垣対地射爆撃場を閉鎖し、自衛隊より返還される。



芦屋乗降場と筑前芦屋駅との相関図=茜堂

軍用芦屋線が、昭和22年3月3日に開業し、翌日の4日には米国人専用の芦屋乗降場が開業し、
昭和25年2月10日に、国鉄に業務委託され
国鉄芦屋線として、日本人乗降用の筑前芦屋駅が、誕生する迄の推移を図説します。


以下の画像は、現在の筑前芦屋駅構内跡地の航空写真です。(Google)
そこへと繋がる、国鉄芦屋線の廃線ルートも良く分かります。右手には、遠賀川の支流の西川が見えています。
   


茜堂-航空写真(Google Earth)

画像©2015 Cnes/Spot Image, Digital Earth Technology, DigitalGlobe,

上記画像に、カーソルを当てて頂ければ、貨物操車場、芦屋乗降場と、外れた場所に有る筑前芦屋駅の現在の姿が、ご覧頂けます。
画像イラストは、昭和25年6月1日、国鉄芦屋線となり、初めて日本人が利用出来た、筑前芦屋駅の最終期を表しています。
   

芦屋乗降場と、筑前芦屋駅との駅間は、700mも有りました。
駅間とは、一般的に駅長室の有る所が、駅の基準点とされますが、乗降場の場合はホームの中心と致します。
左手下側の林の奥に、米軍基地の滑走路(現、航空自衛隊基地)が、位置します。

茜堂-芦屋乗降場と筑前芦屋駅の推移

以下の図面は、米軍基地のフェンスの変更移設に因る、芦屋乗降場と筑前芦屋駅の、それぞれの移り変りを表しています。
ヤードの線路数はイメージです。些かアバウトな図面ですが、ご容赦願います。
   


茜堂-芦屋線線路図 茜堂-芦屋線線路図 茜堂-芦屋線線路図

左側の図面が、昭和22年3月3日の、芦屋乗降場(米軍基地関係者専用)の開設時で、
中央の図面が、昭和24年12月10日に、米軍基地外柵移動が完了。後に開業する筑前芦屋駅と、旧外柵の位置を示しています。
右側の図面が、昭和25年2月10日の、筑前芦屋駅の開業時で、外柵が内側と南側に移設されています。
   

米軍からの委託を受けた、国鉄は、終着の米軍専用の芦屋乗降場の手前、基地フェンス外に、日本人乗降用の筑前芦屋駅を新設します。
米関係者達は遠賀川駅を出ると、終着迄直行でしたが、委託後は、少し手前で停車をし、日本人の降車を待たされる事となり、
不便を強いられていました。また、混合列車で有る編成は、後部に貨物を連ね、目的地の前で一旦、停車しなければならなかった。
   

その為、発車時には余計な燃料が必要となり、下り列車のみならず上りも同様で、運用上、日米共、不合理な仕業となっていた。
然し乍ら、米軍側の基地安全管理上、米国人基地関係乗客と一般日本人乗客とは、乗降地をベース内とベース外に分ける必要性から、
二駅連続停車は、日本人乗客の利便性を図る為の、仕方が無い措置となっていました。
   

これに依り、一般日本人乗客様の筑前芦屋駅は、双方の役務関係の都合上、芦屋乗降場の駅本屋から、700m南下した所に有る運転所に、
設ける事となったが、米軍基地の外柵に掛かる為、昭和24年12月10日に、線路の南側に外柵を移動しています。
斯くして、筑前芦屋駅ホームは、昭和24年12月13日に完成し、翌年の2月10に開業しました。
   

以下の画像は、米軍用線(大蔵省所有)が、開業をして約1年半後の、昭和23年11月1日に、米軍が撮影をした航空写真です。
この約1年3ヶ月後に、国鉄が米軍から業務委託を受け、国鉄芦屋線となります。
撮影は午前中に行われた物で、影の具合が、構造物の立体感を良く表現しています。なお、当画像は転載禁止です。
   


茜堂-航空写真(国土地理院)
茜堂-航空写真(国土地理院) 茜堂-航空写真(国土地理院)

以上の米軍に因る航空写真画像は、正規に入手した物であり、複写や転載はご遠慮願います。
国土地理院オーダー番号D07-032に依る物です。また、掲載画像は、縦型ワイド版のトリミングとして居ります。
   

画像からは、扇状に広がる貨物構内に、点在する連なる貨車と、5棟の貨物上屋が見て取れます。
貨物上屋の南側に有る、構内の距離の長い線路は、影の出来具合から見て、ハンプヤード(坂埠)だと推測されます。
このハンプは、廃止10年後の団地竣工後にも、グラウンド予定地には、まだ残されていた様です。(昭和50年3月2日の航空写真にて確認)
   

但、ハンプの位置が、仕分け線の終端に位置する為、貨車の振分けが出来ませんので、少しばかり疑問点が残ります。
これが、扇の要側であれば、貨車の振分けがポイントの切替で、可能となるのですが、
何か、荷の関係で、斜に止めて置かなければならない、特別な事情でも有ったのかも知れません。
   

貨物操車では、旅客ホームである芦屋乗降場(駅本屋)が、貨物構内へと分岐する、扇の要部分の手前北側に設けられていた為、
運転室(後の日本人が乗降出来る筑前芦屋駅)から、奥に700m程進んだ所迄、貨物車両共に侵入します。
そこで、混合列車の、米軍基地関係乗客を降ろし、客車を切離した後、機回しをし貨物車両をヤードへと牽引しています。

   
上り編成では、客車を繋いだ状態で、空き貨物が待つヤードに入線し、貨物連結後に本線に引き出します。
その後は、旗振り手を携え、旅客ホーム迄バック運転をし、乗客を乗せた後に出発します。
運用上での機関車の向きは、終着にターンテーブル(転車台)が無い為、下りは後向きで、上りは前向きで運転されていました。
   
混合列車(ミキスト)は、一本の列車に客車と貨車の両方を、連結編成した列車の事を言います。
芦屋線の運用では、下り編成は、逆向きとなった機関車の頭側に、客車が連結され、次に満載の貨物車両が連なります。
逆に上り編成は、前向きとなった機関車のテンダー側に、客車が連結され、次に空載となった、戻りの貨物車両が連なります。



機関車と風光明媚な芦屋町の魅力=茜堂

芦屋線とは直接は関係ございませんが、路線跡を間接的に引継いだ基盤となった、芦屋鉄道の機関車の図面が発見されています。
鉄道考古愛好家にとっては、芦屋町は、宝の山の様に思えてなりません。

茜堂-機関車の設計図発見

平成23年2月21日付けの、西日本新聞夕刊の1面トップには「幻の芦屋鉄道、機関車の設計図発見、公開」の見出しが躍っています。
見つかった設計図は、地元の民家宅から発見され、家人から芦屋町に連絡が入った様で、
機関車設計用の青写真は、都合9枚有って、紙面の保存状態も良く、貴重な資料となっています。
   

記事に依ると、図面は軽便鉄道、芦屋鉄道用に「雨宮」で有名な(茜堂補足)、軽便鉄道会社の大日本軌道が設計した、
蒸気機関車6屯(トン)の詳細設計図(青焼)で、設計図記載に依ると、当時の監督官庁の鉄道院に、提出された後、
現在の北九州市若松区で、機関車が製造された事が、判明したそうです。

茜堂-静態保存のD6061号機

高浜町児童公園保存の、D60 61号機(元D50 282号機)は、筑豊本線で活躍し、芦屋線とは全く縁の無い機関車です。
公式側(機関士側)キャブの、区名版が「芦」になっていますが、これは遊び心で、芦屋機関区なるものは存在して居りません。
因に、非公式側(機関助士側)キャブの区名版は、且つての所属機関区で有る、若松区の「若」が差されています。
   

筑前芦屋駅の海側に、駅長宿舎(旧=芦屋町3085番地)や、助役宿舎が有り、その宿舎跡地が、高浜町児童公園(芦屋町)に当たります。
芦屋町の高浜町児童公園、町名が2つ続くが、現在の住所は、福岡県遠賀郡芦屋町高浜町2丁目となっています。
   


茜堂-D6061キャブ
D60 61号機、
芦屋町、高浜町児童公園にて、
平成24年7月9日、撮影。

高浜町児童公園の、碑文に因れば、芦屋線には「C28型蒸気機関車が使用されていました」と、記されていますが、
芦屋鉄道時代の物でも無く、当軽便では、動輪が2対のB型のナロー6屯機関車を使用し、動輪が3対のC型機関車は走っていません。
勿論、国鉄にも「C28」なる機関車は存在して居りません。芦屋線には若松機関区所属の、8620型のみが入線していた筈です。
   

憶測の域を出ませんが、C(型)、2(気筒飽和式、或はテンダー付)、8(はちろく)の、意なのかも知れません。
列車番号と間違えそうな、数字だけの8620型の、米軍側の呼称だと仮定すれば、あながち間違いでは無く、記号的には辻褄が合いそうです。
若し、朝鮮戦争激化で、9600型担当の臨時貨物が入線していたら、この法則で言えば「D29」と、呼ばれていたやも知れません。
   

また、公園の碑文には、開通日は1948年3月10日、遠賀川駅〜筑前芦屋駅間は6.2kmと記されていますが、どちらも誤記と思われます。
謎多き国鉄芦屋線、いつの日か、更なる詳細資料が出て来る事を願いつつ、日々精査、加筆する所存です。
芦屋線が廃止された、昭和36年6月1日は、奇しくも鹿児島本線門司港駅〜久留米駅間が、電化開業した日となっています。


弥生時代後期には「岡の津」と呼ばれ、豊津、宇佐と共に、三大軍港の一つとして有名で、奥の深い広大な湾を成していました。
今日の「芦屋」の名称は、既に平安時代中期から「芦屋津」(津=港)として、記録に残っています。
   

1185年(寿永4年・元暦2年)、葦屋浦の戦い(治承・寿永の乱)の、合戦場となったおり、平家と共に、地主山鹿氏が滅んでいます。
山鹿氏の後の、地主麻生氏は戦国時代まで続き、室町時代には地主麻生氏と、周防の大名大内氏の保護の元に、
鋳物師集団がこの地に本拠を置き、梵鐘や鰐口等の製作に、巧みな技を発揮し、茶の湯の世界で有名な「芦屋釜」が生まれています。
   

明治22年の、大日本帝国憲法が公布された、同年4月1日に市町村制も施行され、芦屋は芦屋村と山鹿村の二村で発足します。
但、江戸時代から「芦屋町」と、呼ばれていたこの地が、明治となって「芦屋村」となった事もあり、
庄崎村長から、福岡県知事安場保和宛に、明治24年5月8日付けで「村名変更の義申請」を、提出しています。
   

この件は、直ちに承認され、同年6月10日の県令で「芦屋町」として許可され、遠賀郡唯一の「町」として発足します。
一方の山鹿村は、日露戦争の終了年の、明治38年11月5日に、芦屋町に吸収合併され、新生「芦屋町」が誕生しています。
   

また、豊かな恵みの海と、美しい自然を持つ、風光明媚な芦屋町には、様々な魅力が、散りばめられています。
主な名勝地では、響灘が見渡せる芦屋海岸、岡湊神社、狩尾岬、洞山、波懸遊歩道、魚見公園、城山、夏井ヶ浜の浜木綿等々、
海の幸もバラエティー豊かで、新鮮で美味しい魚介類が、堪能出来ます。




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